胡蝶の夢

まるで泡沫の夢のように終わったゴールデンウィークの、その最後の一日はwifiの設定に費やすことで終わってしまった。ボクは根っからの文系人間で、ネットワークとかサーバーとかいう概念に果てしなく弱い。とはいえ大抵の場合は取説の通りに弄っているだけで何とかなる訳だし、よしんば問題が起きたところでグーグル先生にかかれば大抵の問題は解決する訳だが、今回はどうもサーバー内で色々と設定が絡まってしまったらしく、どうにもこうにもwifiが繋がらなったために途方に暮れてしまい、そうこうするうちに貴重な最後の休日があっという間に過ぎ去ってしまった。

今回のGWを総括するに、どうにも徹頭徹尾、計画性というものが欠如していたような気がしてならない。ボクは自分でいうのも何だがひとり遊びが上手なタイプなので、前もっての計画など無くても充実したゴールデンウィークを送れるのだと確信していたのだが、今回に関してはその通りではなかった。GW前の仕事量があまりに多すぎたということもあり、精神的にも肉体的にも疲弊していたためだろうか、文章を書く気にも読む気にもなれず、ゲームをしようにも没入できず、ネットをしていてもどこか空虚さに捉われ、心から暇を満喫することが出来なかった。

思うにこれは自分が現実世界に入れ込み過ぎた弊害であり、あまりにも多くの時間と労力をリアルに注ぎこんでしまったが故に空想の世界に入り込めなくなるという、「ネトゲ中毒」ならぬ「リアル中毒」に掛っていたということなのだろう。あな恐ろしや、恐ろしや。読者諸兄にも是非気を付けて頂きたい。あまり現実に傾倒しすぎると空想に戻れなくなりますからね。

深夜ラジオを聴きながら

「学生」と「ラジオ」というのは切っても切れない関係だと思うのだけれど、ボクくらいの世代は丁度、いわゆる無線ラジオではなくて、インターネットラジオを聴いて学生世代を過ごしてきた初めての世代に当たると思う。一昔前の世代だと、オールナイトニッポンを聴きつつ受験勉強に精を出していたと思われるところ、ボクが高校生の頃は「ねとらじ」みたいなインターフェースを利用して、フリーターだとか暇な大学生が流すラジオを聴いていたものだ。素人の放送なのでクオリティという面から言えばお察しなのだが、何故か当時の自分は好き好んでネットラジオを聴いていた気がする。当時のネット界隈は現在のように多様なコンテンツを有している訳では無かったので、他にやることもそんなに無かったからなのかも知れない。まあ現在でいうニコ生とかツイキャスに嵌る学生と大体同じようなモノだとは思うのだけれど、当時はそういうリアルタイムの生放送のコンテンツは無かったので。と、書いていて思ったのだが、当時既にピアキャスは存在していたはずなのにかかわらず、高校時代のボクはついにピアキャスを利用することは無かった。というか、今まで一度も利用したことはなく。当時はニコニコのゲーム実況も結構見ていたので、そっち経由でピアキャスの名前を聴くことはそこそこあったのだが(永井先生とか)、環境を整えるのが面倒だったとか、何となく客層がヤバそうとか、そういう理由であまり足を延ばそうと思うことのなかった界隈だった。まあ冷静に考えてみると、高校生のクソガキが利用するようなサービスではなかったと思う。

さて、今は「くりぃむしちゅーのANN」を聴きながらブログを聴いている訳だが。
友人に勧められて少しずつ聴いているのだけれど、上田のキレキレなツッコミが面白く、そこそこ楽しんで聞いている。2006年~2008年頃のラジオなので、リアルタイムで聴いていてもおかしくない時期にやっていた番組であり、事実ボクの友人はリアルタイムで聴いていたとのこと。
そう考えると、まさしくボクらの世代は昔ながらの無線ラジオと新興勢力であるネットラジオが両方存在している時代だったのかなあ、と何となく思った。
で、2015年現在はというと、ニコ生やツイキャスといった生放送が興隆する一方、ラジオという文化は廃れていってるのかなあ、と思う。ねとらじは完全に死んだし。いや、元々メインカルチャーではない以上、廃れるという表現は正しくないのかもしれないけれど、中学生や高校生がラジオを聴く機会はもしかしたら減っているのかもしれない。

時の流れは早い

時の流れは本当に早いモノで、うちの職場には後輩が何人か入り、ボクは「職場の最年少」あるいは「新人」という肩書を彼らに渡すこととなった。新人という肩書は車に引っ付ける若葉マークみたいなもので、周囲はなんとなく優しく接してくれるけれども、ほんの少し、距離を置かれているようにも感じるもので。同僚でありつつもお客さん扱いされているような、そんな感じ。
僕としては、職場の人間からの、ある意味腫物に触れるようなそういう扱いがどうも苦手だったので、新しい新人が入ってきたことで相対的に職場における自分の異物感が小さくなったように感じて、それが結構嬉しい。
さて、肝心の仕事の具合については、順調とは言えないもののあえて職場外にいる時に考えるのも嫌なのでそれはそれとして、オフはオフで、去年よりも楽しめている気がする。仕事をこなすスピードが若干早くなったのに加え、仕事に問題を抱えながらも私生活では一切思い悩まないという、「二重思考《ダブルシンク》」を会得したことが大きい。去年はトラブルを抱えながら趣味に没頭することが出来なかったけれど、今年のボクは一味違うのだ。
……まあ、言い換えてしまえば「飼いならされている」ということではあるが、ボクが社会というものに飼いならされているとして、社会そのものに打ち勝つことが出来ない以上、飼いならされる方が賢明な生き方とも言える。足るを知るというか、自分の力量以上に金や時間を求めてはいけないということなのだろう。ビックブラザー万歳。

そんな訳で、今年度もだらだらと愚痴を綴っていきながら、それでもなんとかどうにか生計を立てていきたいと思った次第。

ある日、爆弾がおちてきて

というラノベを読もう読もうと思いつつ、けれども10年前のラノベであるのに加えて売れ筋じゃない作品、ということなのだろうか、どこの本屋にもなかなか置いておらず、読む機会を逸していた次第なのだが、最近になってようやく「あれ、アマゾンで買えばいいんじゃね」という至極明快な名解にたどりつき、その日のその日のうちにアマゾンで購入手続きを済ませたところ、昨日になってボクの手元までたどり着いた。
早速、ぺらりと読了してみたわけだが、実はオムニバス形式の作品だったので若干意表を突かれた。表題の「ある日爆弾がおちてきて」は40ページくらいの短編で、その他にも6つの短編が収録されていた。

内容としては、風采の上がらない2浪予備校生の元に、ある日突然、高校時代の好きな人に似た「自称・爆弾」がおちてくるという、いわゆる一昔前のラノベ的設定(いやまあ、個人的にはそういう「一昔前の」ラノベが好物な訳だが)。日常のなかの非日常を爽やかなタッチで描写しているという点においては「イリヤの空、UFOの夏」に似ていると思ったし、あるいは「放課後のロケッティア」のようななんとなくノスタルジックな雰囲気がある。個人的にはかなり大好きな雰囲気の作品だったので、わざわざアマゾンで頼んで良かったと思っている。

社会人になって一年が経過し、社会人としての生活に慣れた関係で昨年よりは本を読む時間も取れそうなので、どんどん本を読んでいきたいと思う。今年の目標はメフィスト賞作家の開拓。

今日も上司にアルカイックスマイル

前回の記事から骨折繋がりで書かせてもらうと、時々「いっそ骨折してえなあ」なんて若干自傷的な考えに捉われることがあるのだけれど、これは別にボクがMであることに起因している訳ではなくて、いや自分はSというよりかはMに若干偏っていることに変わりはないのだけれどそれはそれとして、「痛み」その物を望んでいるのではなく、「言い訳」としての骨折を望んでる節があるのである。簡単に言ってしまえば「まあきみは骨折しているのだから仕方ないよね」という感じの、ああいう、弱者を相手にしたときの世間のあの対応が欲しいのだ。つまり、まあこれは骨折の原因にも依るのだろうけれど、仮にボクが偶然によって骨折した場合、世間の大抵の人間は「可哀想だなあ」的な視線で見つめてくれるだけに留まらず、「じゃあ、骨折してるから働けなくても仕方がないよね」となるのである。ボクが欲しいのはこれである。付随して纏わりついてくるであろう同情の視線は別に必要とはしていないどころか、むしろボクの中に僅かに存在する後ろめたい気分を逆撫ですると思われる。
生存競争の観点から見れば、怪我を負った個体というのは集団から見放されて当然な訳だが、生物の霊長たる我らが人間様は、膨大な税収を背景にした膨大な社会保障費を背景にして、弱者救済という正義のシュプレヒコールを掲げてやまない訳で、つまりは弱者にとってはとても居心地のいい世界を構築してくれている。そりゃあもう、ある意味では健常者よりも居心地のいい世界を。
お陰様でボクのような身体の脆弱な、けれどもあくまで健常者に属する人間は、自身が暮らしていく以上の労役を間接的に課せられている訳だから、正直あまり居心地が良くない。今の仕事では職業柄、精神障害者身体障害者知的障害者とコンタクトを取る機会がそこそこ多く、だからこそこんな(世間的には)歪んでいる価値観に捉われているのかも知れないけれど、けれども彼ら彼女らが「障害」というハンデを盾に様々な公的サービスを受け、仕事三昧でさっぱり読書の時間も取れない自分よりも有意義な生活を送っているのを見ると、正直たまにヘコんでしまう(勿論、彼ら彼女らがボクの貧弱な想像力では思い付きもしないような様々な困難に日々直面しているであろう事は分かっているつもりなのだが、それでも)。まあ仕方ない、仕方ないのだ、彼らは障害者だから複雑な作業、タフな作業は出来ないし、身体も万全ではないので長い時間働くのは難しいだろうし、けれども社会というのは誰かが回転させる必要があるので、ボクのような何の障害も持っていない人間が頑張って働かなければいけないというのは頭では重々理解できるのだけれど、それでも時折ふと思ってしまうのだ、何故自分ばっかりこんなに、と。こんなんなら、いっそ弱者サイドになった方がいいんじゃないか、なんて禁断の発想に至ってしまうのだ。
そんな訳で、最も手っ取り早く弱者になる方法としてはやはり「骨折」が一番だろうとボクは思うので、そんな思いを拗らせて冒頭のような一見ドMにしか聞こえない主張にたどり着く。
骨折というのはフツウはなんの後遺症もなく治るし、それでいて数か月は安静にする必要が社会的に認められているので、強者であることに疲れたボクが休養と気分転換を兼ねて弱者になる手段としては限りなくベストに近いと思う。さらにピックアップするとすれば、足の骨折がベスト。松葉杖を突いて歩いている様子は見るからに痛々しく、周囲の人々の「仕方がないよね感」を誘いやすいし、だれも働けなんて言わないだろうし、両手は空いている訳だから、怪我が治るまでの数か月間は読書三昧さ。ひゃっふう、考えるだけで楽しくなってきた。加えて一日中ベッドの上で自堕落に過ごしていても誰も文句は言わないし、「たまには外にでも出てみたら?」みたいな小言もないし、病院は天国に近いなんて言われるけれど、実際は病院自体が天国なんじゃないかと思える程度には楽しい日々が送れそうだ。


なんて事を考えている時点で自分はだいぶ精神的に病んでるのかもしれないが、あと数週間頑張れば仕事もひと段落つくのでとりあえずそこまでたどり着きたい。GWの輝きだけを頼りに。

とりあえず文をたくさん書くリハビリ

小学生の頃に、右腕を骨折したことがある。

小さい頃の自分は、多少という言葉では足りないくらいに行動力溢れる少年で、その日も自分らしさを遺憾なく発揮したらしい当時のボクは、鉄棒の上で逆立ちをするという暴挙に出たあげく、ついには重力に負けてぺちゃんこに潰れてしまった。そしてその時に右腕を骨折してしまったという訳。

かくいう訳で、痛々しいギブスを相棒に2か月もの日々を過ごすことになってしまった自分は、当初は右手が使えないという不自由さと外で遊べないという精神的鬱積感に、辛抱たまらん状態だった訳だが、しばらくするとそれなりに有意義に時間を活用できるようになってきた。即ち、ゲームと読書によって。

思えばあの2か月が自分が本の虫になった切っ掛けだった…………なんて展開では全くなくて、当時既に図書館通いだったボクは、ジュブナイル系統を主軸に様々なジャンルの冊子を読み漁っていた訳だが、しかしまあ小学生というのは金食い虫ならぬ時食い虫で、あれほどまでに自由な時間を与えられながら読書に充てられる時間などというものは殆ど無い。有り余る自由時間の多くは友人宅でのゲーム、サッカー、三角ベース、ミニ四駆ベイブレード、カードゲーム、エトセトラ……に充てられる訳で、その中で暇を見つけては図書館へ通って「ヨースケくん」とか「でんでら竜がでてきたよ」とか「ズッコケ3人組」とか「ブラッカブロッコ島」とか、とにかくアホみたいにジュブナイル小説を読んでいたボクはやはり読書家を名乗っても恥ずかしくない程度には本に近しい生活を送っていたとは思われるのだが、それにしたって読書に充てる時間は足りなかった。現状から考えると当時の自分はかなり贅沢な悩みを抱えていた訳だが仕方がない。当時の自分には「足るを知る」という概念はなかった。飽食の時代だった。食べるのは時間だけど。

話を戻させてもらうと、つまりはボクは、図らずも骨折によって自由な時間を手に入れることになったのである。ギブスを付けたままではサッカーや野球、鬼ごっこ等に参加するのは不可能だし、片腕が使えない以上、友人宅でボンバーマンやマリカをすることも出来ない訳で。小学生というのは現金なモノで、通信ケーブルを持っている、みたいな理由で遊びに誘うこともあれば、逆に自分みたいに骨折していて一緒のリズムで遊べない人間はそもそも誘ったりしない。難儀なモノだ。まあいい、そうして浅はかな友人と引き換えにフリーダムな時間を手に入れたボクは、骨折が治るまでの2か月をほぼ全ての時間をゲームと読書に費やしたのであった。

具体的に何をしていたか、と言われると10年以上前の話なのでそんなに明確に覚えている訳ではないのだが、まずゲームから言ってしまうと、ドラクエ天空シリーズ、すなわちⅣ・Ⅴ・Ⅵの3作はこの時期にクリアした、と思う。RPGというのはどんなに少なく見積もっても30時間はかかるものなので、3作で大体100時間を費やした事になる。あと、ポケモン銀の1匹クリア縛りもこの時期にした記憶があるし、デジモンワールドをクリアしたのもこの時期かも。これらのゲームはおおよそアクション要素が無かったので、当時右腕にギブスを嵌めていた自分でも無難にプレイでき、ひいてはその後の自分のロープレ好きのトリガーとなった感も否めない。
で、読書のほうでは、デルトラクエストナルニア国物語といったハリーポッターの二番煎じ的作品群、星新一、ああ!あと忘れてはいけないのは「キノの旅」。当時、発売からそんなに時間の経っていないキノの旅がなぜ田舎の図書館に置いてあったのかは未だに謎だが、恐らく職員にラノベオタが一人交じっていたのだろう。彼に向かってこう言いたい、「おうテメーのせいでいたいけな小学生が一人ボクっ娘スキーになってしまったぞ」と。(そういえばこの〇〇スキーという表現も死語になって久しい)

そんな訳であの骨折は振り返ってみれば現在の自身の性向にかなり関与している訳で、逆に言ってしまえば、あの時鉄棒の上で逆立ちをするなんて血迷った行動をしなければボクは世間的に見てもう少し真っ当な性格に育っていた可能性もかなりの可能性である訳で、まあでもたとえ世間が今のボクの性格を疎んじていようともボクは自分の性格が結構好きなので、あの頃骨折して良かったなあ、なんて遅まきに思っていたりする。

ギブスという名の装備に中二心を刺激され、周囲の人間に自慢げに見せびらかしていたのはまた別の話。

だし巻き卵の可能性について

先週末は奈良にいる知り合い宅に遊びに行った。「旅行」というとちょっと語弊があると個人的に思っていて、つまりは何の計画性もなく奈良に飛んだ訳だから、これはやはり「遊びに行った」という表現が適当だと思う。
そんな訳で、せっかく関西に行ったにも関わらず対して観光巡りは出来なかった――というよりしなかった訳だが、決して不満だったわけではなくて、むしろボク的にはかなり充実した週末だった。具体的に何がそんなに楽しかったの?と言われると困ってしまうのだが、美味いモノも食べれたし、ドラクエヒーローズもプレイ出来たし、久々に雑談もそこそこしたと思う。……あ、半ば強引に見せられた「ゆるゆり なちゅやちゅみ!」は正直全く内容覚えてないです。
そんなこんなで金曜土曜と関西を巡り、日曜の午後に我が家に戻ってきた訳だが、それはそれはかなりの疲れが体内に蓄積していた訳で。ここ数日は、働きつつ体力を回復させるので精一杯だったという訳。
「やはり自分は軟弱な体質なのだな」と、若干の自己嫌悪を覚えつつ、けれども久々に充実した生活を送れたので個人的に良い週末の過ごし方をしたと思っている。

さて、現在はというと、帰りの飛行機の中で読んだ北方謙三の「水滸伝」に嵌っている。単なる暇つぶし本だったはずが完全にド嵌りしてしまい、読み始めてからまだ数日しか経っていないにも関わらず既に3巻まで読破してしまっているのだから、それはそれは心を奪われてしまっている。北方水滸伝は全19話という超大作なので、しばらくは読む本が無いという心配はなさそう。タイタニアもまだ3巻までしか読んでないし。
水滸伝読み終わったら、その知識を元に幻想水滸伝をプレイしてみたいし、アインハンダーは未だにクリア出来てないし、ヴァルキリープロファイル興味あるし、ドラクエヒーローズやらせてもらったら結構面白かったし、春アニメでアルスラーン戦記やるのでその前にある程度原作読み進めておきたいし、けれども年度末は仕事がアホみたいに多くて残業の嵐なので、需要供給曲線的に考えて、時間の価値がうなぎ上りになっている状態。


あーあ、どっかに有給落ちてねえかな。