忍殺語よりもブロント語がすき

何を今更、と言われるかもしれないが、ニンジャスレイヤーのアニメがそこそこ面白い。
小説版の忍殺はニンジャヘッズという程に嵌っていた訳ではないが、わざわざ紙の本を購入する程度には好きだったので、今回の忍殺アニメ化は期待していたのだが、その一方で「これはたぶんアニメ化したらコケるだろうな」なんて事を考えていた。というのも、アニメ化して成功する作品というのは純粋に「ストーリーが面白い作品」だからだ。文章そのものが面白いかどうかは全く関係ないのである。ニンジャスレイヤーという作品はストーリーのクオリティで売れた作品というよりかは、文章表現の面白さで話題になったいわゆる飛び道具的な作品である。そういう訳で、アニメという表現方法ではこの作品の面白さを表現することは難しいだろうな、なんて事を考えていたのだが、制作会社のトリガーはこの問題を「アニメだけどあまり動かさない」+「ナレーターを多用して独特の言語表現を目立たせる」という合わせ技で上手く解決したと思う。
あとアニメでもヤモト=サンカワイイヤッター!

自信に満ち溢れた人が苦手だ

読む本の種類によって、その時の自分自身の精神状態が何となく分かるような気がする。
    
高校時代の時のボクは、今よりも恋愛小説や学園モノの小説を好んで読んでいた。
それは当然、「感情移入しやすい」という単純極まりない理由に起因していたのかもしれないけれど、とにかく当時の自分は、現実そのものを主題にした小説を楽しんで消費していたことは確かだ。

高校時代のボクは当然今よりも若く、英気に溢れていた。自信に満ち満ちていた。自慢ではないが、当時通っていた高校では常にテストでトップを取っていたし、部活もそこそこ頑張っていて、全国大会に出場出来るくらいには活躍していた。顔は現在と同じで格別に見栄えが良い訳ではなかったけれど、クラスの女子から時折交際を申し込まれるくらいにはモテていた、と思う。まあ当時から友人は少なかったし、結局誰かと付き合うようなこともなかったので、所謂リア充という訳ではなかったのだけれど。それでも客観的にみてボクは学校内でもキャラクターが立っていた人間の一人だったと思うし、ゆえに自己のアイデンティティや承認欲求について悩むようなことは欠片もなかった。将来について悩むこともなかった。なぜならボクは学校内では相対的に優秀な成績を収めていたし、いわゆる難関大学へ進めば、普通よりも良い生活が送れるという浅はかな思考に捉われ続けていたからだ。目の前のレールをただただ歩んでいけば、明るい未来に到達すると信じて疑わなかった自分がそこにはいた。そして当時のボクは現実をモチーフにした小説を好んで読んでいた。

翻って、現在のボクは現実から遠く離れた物語を消費している。それはファンタジーであったりSFであったり、戦記モノだったりする。共通項は、現実には決して有り得ない物語という所だ。
今のボクは学生時代のボクと比べると、自己への期待というモノが著しく減少しているように思われる。はっきり言ってしまえば、自信を喪失している。投げやりな気持ちで人生を送っている。高校時代の第一志望の大学に入学し、特別優秀とは言えない成績ながらも4年でしっかり卒業し、就職も特に問題なく決めた今の自分は、高校時代のあの当時、目の前に見えたレールの先に確かに到達しているはずなのだが、レールの先にあったのは輝かしい未来でも何でもなかった。そこにあるのはただただ無味乾燥で無感動な世界であり、灰色だけで構成された生活だった。学生時代よりもたしかに年を重ねた自分がここには存在していて、その流れは加速することはあっても、逆転することは決してない。生物としてのボクは今この瞬間にも緩やかに衰退しているのだ。成績の良い自分、スポーツの出来る自分……そういった個性は過去に存在したものでしかなく、今ここにいるのは、ただのくたびれたオッサンになりかけているしがない若者でしかない。あと数年もしてしまえば只のくたびれたオッサンだ。現実は依然として煌びやかだが、今のボクにはその現実に調和できる程の輝きを持ち合わせてはいないのである。辛うじて、煌びやかな現実に擬態できる程の能力は持ち合わせている訳だけれど、そこにいるのは本来の自分ではない。そうして現実に迎合するのに疲れた自分は、やがて自分自身と、それから、現実そのものに対して少しずつマイナスの感情を抱くようになったのだ。
そんな自分が現実についての物語を楽しめる訳もなく、消費するのは現状から遠く離れた御伽話の数々だ。それらの物語には現実感がない。現実に合わせる必要がないのだ。非現実ばんざい。
――と、書いていて思ったのだが、原理としてはオタクが二次元に嵌るのと何ら変わりないのだと思う。


結論。要するに、現実を生きることに優れた性質の持ち主は現実を悠々と生きればいいのであり、現実に適合出来ない人間は、現実から逃避しつつ現実を生きればいいのだ。
問題なのは、前者は現実の世界だけで生きることが出来るのだが、後者は現実以外の世界だけでは生きることが出来ないということだ。
水面下で暮らすクジラがときには水面上に顔を出す必要があるのと同じく。

息継ぎをしながら生きていこう。そう思った。

大勢の中の一人

久々に仕事でミスをした。
客観的に見てかなり傷の浅いミスなのだが、自分が予想以上に精神的に凹んでいるので、どうしたものか、と動揺している。

ミスはだれにでもある。これは自己弁護の為に生まれた妄言ではなく、自明の理である。人間は未完成な生物なのだ。だから、ミスをするのもある意味仕方がない。ゆえに一つ一つの細かいミスにいちいち心を凹ませるのは不毛だし、何より精神衛生上よろしくない。QOLが著しく低下してしまう。
……と、ここまで頭では理解しているにも関わらず、一方では小さなミスに想像以上に心を揺るがされている自分もいるのだ。

小さなミスひとつでどうしてここまでメンタルがやられているのか。思うに、ボクに完璧主義の気があることに起因しているのだと思う。
この完璧主義という一面は確かに昔から自分の中にあって、けれどもボクはそういう自分があまり好きではなかったので、普段は意図的に「ルーズでユルい性格」として振る舞っている。実際周囲の人たちからどう見えているかは別として、だけど。
けれども実際のところ、元々の自分には完璧主義的な一面があるので、時折今日のようにメッキの性格が剥がれてしまい、本来の自分、つまり、完璧主義の一面が底を見せてしまうのだと思う。

完璧主義という性格は、かなりやっかいだ。完璧という名前がついているから一見華々しい性格のように見えるけれども、言ってしまえば自ずから望んでオワタ式縛りをしているようなモノだ。簡単に言うと、打たれ弱い。
打たれ弱いからミスを恐れ、つまりは挑戦を恐れ、結果的に完璧からは程遠い位置に飛ばされてしまうのだ、知らず知らずのうちに。
そういう訳で、完璧主義の人間は、完璧主義ゆえに完璧ではない。言ってみれば当たり前の事だけれど。
逆に骨太な性格の人間はミスを恐れないから、沢山挑戦を重ね、ミスと引き換えに様々な物事を経験することが出来る。こういう人間は失敗を糧にし、成功の礎とする事が出来る人間だ。


自分は完璧主義だが、完璧ではない。完璧主義ゆえに完璧ではない。
それを受け入れて、自分という存在を矮小に感じる事が出来た時、自分は完璧主義ではなくなるのだと思う。そうすれば、小さなミスにメンタルがやられることもなくなるだろう。

実質休日出勤

かまいたち」が「鎌」+「イタチ」からきているという衝撃の事実に気付いた今日という歴史的な日。嘘だと思って「カマイタチ」でグーグル先生に画像検索にしてみたら、両手が鎌になっているイタチの妖怪の絵が沢山上がっていたので恐らく本当なのだろう。ちなみに「かまいたち」とひらがなで検索すると謎の芸人の画像が沢山上がってくるので注意。いや別に注意することでもないか……


さて、今日は土曜日でありながら夜に飲み会があるというので、現在そこそこダウナーな気分で文章を打っている。職場の飲み会……というと正確には違うのだが、同じ大学出身の同期の集まる飲み会という訳なので、プライペートというよりかはパブリックな集いに分類されると思われる……げんなり

以前にも何度も書いているのだが、飲み会はそんなに好きではない。頭ごなしにキライなわけでは無いので、それなりに条件が揃えば十分楽しめる余地はあるのだが、その条件というのがなかなか揃わない訳で、ようするに高い確率で飲み会はそんなに好きではない。
ボクは全くの下戸ではないが、ブービー賞貰えるくらいには下戸なので、酒によって思考能力が衰える前に身体のほうがアルコールを受け付けなくなってしまう。だから飲み会の席で記憶を無くしたことはないし、酒の席で粗相をしたこともない。「それ限界まで飲んだことないんじゃね?」とか言われそうなモノだが、限界まで酒を飲んだとして、恐らく記憶喪失になる前に意識不明になる。とはいえ実際のところ限界まで飲んだ経験はないので、本当は意識不明になる前に記憶喪失になるのかもしれないけれど。
周囲の人たちはというと、大抵の人は酒を飲むと口数が多くなるようであり、普段はボクに話しかけないような人も積極的に声をかけてくれる。それ自体は嬉しい事なのだが、「あまりお酒に酔えないボク」と「お酒に酔ってる人間」の間にテンションの差異が存在していることは事実として横たわっており、互いが互いのテンションに合わせようと苦慮するものの、最終的にはお互い相容れることが出来ずに疎遠になってしまう。辛くはないが、一抹の寂寥感はある訳で、「どうして自分はお金と時間を犠牲にしてこんな惨めな思いに浸っているのだろうか」と考えているうちに無情にもタイムアップ、最終的に鬱々とした気分で店を出ることが多い。こういう経験を積み重ねてきたボクは、どうしても飲み会に対してネガティブなイメージを抱かざるを得ない。

加えて、今日の飲み会は同期の集いという都合上、どうしたって仕事の話が出るのは避けられないと思う。ボクからすれば、貴重な休日の夜を使い、仕事について思考を巡らせるなんていうのはドMの所業に違いないのだけれど、かといって他に何か話題があるかと言われれば特に何も思い浮かばないので、やはり恐らくは仕事の話を軸に戦況が動いていくのだろう。既に帰りたい。


救いがあるとすれば、参加者の半分くらいは顔見知りのため、そこまでアウェーの雰囲気を感じなくて済むということか。裏返せば、一緒に働き始めて一年以上経っているにも関わらず、半分くらいの同期とは未だに顔を合わせていないということにもなるのだけれども。

レーベルにレッテルを貼る滑稽さ

ある友人が読書に嵌っているようで、なにやら難しそうな本を色々と読んでいるようだ。
地下室の手記」「タイタンの妖女」あたりはボクも手にしたことはあるが、「異邦人」とか「魔の山」あたりは読んだことがない。

その友人は音楽畑で育ってきた人間で、音楽に関して言えば、大学時代からアホみたいに古今東西の楽曲を聴いていて、自分でもバンドを組んでギターボーカルをやっている位には音楽に傾倒していて、ときにはボクの感性にあいそうな曲を紹介してくれる心優しき人間なのだが、文学界隈に関して言えば全くの素人(本を読むという行為に素人も玄人もないわけだが)な訳で、それでいて上述のような難しそうな小説を読んでいるものだから、消化不良になって逆に本がキライにならないか心配なのである。

文学界隈には権威主義的な価値観が蔓延っていて、はっきり言ってしまうと、ボクはそういう風潮が大嫌いだ。そりゃあ、遥か昔に書かれたモノで現在まで名前が残っている作品というのは名作だと思うのだけれど、それは言ってしまえば「ファミコンの名作」くらいの意味なのであって、そのままそっくり、現在にも通用する名作という訳ではないだろう。
小説を読みなれていない人に古典文学を勧めるというのは、ゲームに興味がある小学生にファミコンの名作ソフトをやらせるようなモノで。小学生からしたらそりゃ3DSなりPS3をやらせろってなるだろう。ボク個人としては、レトロゲーに手を出させるのは最新ゲームを飽きるほどやった後で良いんじゃないか?なんて思ったりする。
同様の理由で、小説に興味を持ったばかりの人に勧める作品としては、有川浩とか三浦しをんあたりの一般文芸でも最も読みやすい部類に入る作家や、あるいは売れ筋のラノベあたりを勧めればいいのではないかな、と思う。
そりゃあ、人によって小説に求める物は違うと思うので、そのあたりの方向性は合わせる必要があるとは思うけれど。恋愛の物語を楽しみたいと思ってる人にソードアートオンラインを勧めるのは絶対違う訳だし。(その場合、ボクなら「理由あって冬に出る」とか「とある飛空士への追憶」あたりを勧めたい。相手が女性なら「塩の街」とか「初恋彗星」あたりが良いんじゃないか)

まあつまりは、読書なんてそんなに高尚なシュミじゃないだろう、という主張だ。会社の同僚とか同期に読書が好きという話をすると「頭良いんだね」的な返答をされることが多いのだが、言ってしまえば「テレビを見るのが好きです」「ゲームをするのが好きです」というのと全く同じじゃないか。

ただまあ、世の中にはドヤ顔したいという理由だけで難しそうな本に手を出すような人間も一定数いるらしいのだけれど。世の中には実に様々な人間がいるものだ。

ときには深く潜るのも悪くない

少女「海と、瓶に詰まった手紙」
寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。
魔王「人間殺す」カタカタ 勇者「これはAUTO」


うちのパソ子ちゃんのDドライブ漁ってたら「お気に入りSS集」的なメモ帳があったのでいくつかage

最近は一次創作だと「小説家になろう」二次創作だと「ハーメルン」辺りをぶらぶらと探索することが多く、SS界隈はアイマスモバマス関連くらいしかチェックしていない。というのも、男女SSあたりを漁ってみても最近はなかなか琴線に触れるような作品には出会わないので、「自分もそろそろSS界隈を卒業する年齢かもなあ」なんて思っていた訳なのだが、上に挙げた作品は今読み返しても純粋に面白いし感動する訳で、つまりは自分がSS界隈に魅力を感じなくなったというよりかはSS界隈そのものが魅力を失いつつあるのではないかな、という老害的見解に至った次第。
現在のインターネットというのはコンテンツが非常に多様化していて、文章を投下するにあたっても小説家になろうとか理想郷とかpixivとかtwitterとか、かなりの選択肢が用意されている訳だから、そのなかであえてVIPなりSS速報なりでスレを立てる人間などそういる訳もなく、つまりはSS作者が質量ともに減少の一途を辿っているのも当然かつ自明と思われる。
けれどもSS界隈には古き良き作品群が眠っているのも事実で、そのような良作が今後ますますインターネットの海に沈み、海底の一部と化してしまうのだと思うと涙を禁じ得ない。ましてやそれらの作品が自分が青春時代に読んだ作品というのであれば尚更に。職業に貴賤なし、とはよく聞く表現だけれど、ボクは同様に、文章においても貴賤はないと思っている。文章は文章そのものに価値があるのであって、それが書かれた経緯とか、社会的背景とか、作家のネームバリューなんてモノは文章の価値そのものに何ら優劣を与えることはないと思う(文章の需要に影響を与えることはあっても)。つまり何が言いたいのかというと、ボクのなかでは商業作品も同人作品もweb小説も全て同等のモノサシで測られているのだ。そりゃあ、商業作品というのは売れてナンボの作品なので、他の二つと比べると全体的なレベルは優れているものの、同人作品やweb小説にも面白い作品はごまんとある訳で。そういう「商業作品にも負けない名作や良作」が、時代の流れで埋もれていってしまうのはとても悲しい事だと思うし、せめて自分ひとりくらいは、自分が出会った作品群をいつまでも忘れずにいようと思う。
それがどんなにマイナーな作品であっても。

くぅ~疲れましたw これにてGW完結です!

次の祝日が7月というね。流石に祝日の間隔に差がありすぎではありませんか政府さんよ。

という訳でSAN値ダダ下がり中の今日この頃。今日が一年間で最も自殺者が多い日と言われても信じる。というか実際そうなんじゃないの?6月のカレンダーを見る度に圧倒的黒さに心がやられる。ああ、ボクはこんな思いをあと40回近くも経験しなければならないのか……

と、深淵を覗いて生きていると衝動的に仕事を辞めたくなってしまうので、ゲームの話でもして童心に戻ることにしよう。


デジモンストーリーの新作をVITA本体ごと買ってプレイしてみたのだが、予想以上に面白くて感動。デジモンなんだからしっかりサイバーパンクやれや!という10年来のボクの希望がようやく叶った気持ち。名作と名高い初代デジモンワールドは、あれはあれで面白いのだが、サイバーパンクというよりは異世界冒険モノなので、デジモンという素材をまるっと上手に使えた作品ではないとも思っていたのだが、今作「デジモンストーリーサイバースルゥース」は設定がかなり練られていて素晴らしい。「電脳空間」「ハッカー」といった中二心を刺激する設定がデジモン本来の設定と上手く調和していて、かなり上質のサイバーパンクに仕上がっている。主人公の拠点がある中野ブロードウェイを始め、東京の様々な街を実際に歩けるのも楽しい。あとは登場人物のキャラデザも個人的には当たりかな。ジト目とツリ目が好きなので、大体の登場人物がジト目かツリ目になってる今回のキャラデザは俺得。全体的に難易度調整ガバガバとか、何度も進化退化繰り返すのメンドイとか、所々に気に入らないポイントはあるものの、全体としてみればかなりの良作だと思います。ジワ売れしてるのも分かる気がする。
問題は……これ以外にVITAで買いたいソフトがないという事だ。


デジモン繋がりで。デジモン無印の公式続編である「デジモンアドベンチャーtri」が劇場版全6作という事が判明。第一作は11月に放映とのこと。個人的には劇場版のほうがテレビアニメよりもじっくり観れて嬉しいし、何より「全6作」という想像をはるかに上回るボリュームだったことにウキウキが止まらない。ネット界隈で色々言われてるキャラデザも個人的には全然気にならないので、11月の放映を純粋に楽しみに待ちたいと思う次第。
ちなみにリアルタイムの放映時はヤマトが一番お気に入りだったのだが、現在は丈が一番いいキャラしてると思う。15年も経てばキャラの好みも変わるものだ。


自分が「選ばれし子供たち」ではないと気付いたのは果たしていつのことだっただろうか。
もはや子供でもなくなったボクは、明日も朝から地下鉄の群集の一部と成り果てる。