いともたやすく書かれる意味のない雑記

 

 

成長とははて、なんだろうか、なんてことを最近思う。

今の自分は、学生時代の自分より優れた人間なのだろうか?と改めて聞かれると、それはたぶん違うと思うのだ。

 

 

 

そりゃ、人によっては「昔よりも人の気持ちを推し量れるようになった」とか「垢抜けて外見的魅力が増した」とか、色々あるのだろうけれど、こと自分にいたってはそんな分かり易い成長は何一つしていないと、これだけははっきり断言できる。

 

別になにも、学生時代当時の自分がカンペキな人間だったと言っている訳ではなくて。

当時の自分の性質――例えば「一歩引いて世間を眺めている」とか「空気を読むのは得意だけれど、好きではない」とか――そのあたりは現在に至っても全く変わってはいなくて。要するに、当時の短所は今でも変わらず短所として存在していて、それは長所においても、また然りなのだと思う。

 

 

 

だからといって、今の自分が当時から全く変わっていないとは思わない。

学生当時と比べると、自分は「我慢強くなった」と思う。

これは社会から自我を守るために、自分のなかの防衛機制が働いた結果なのだろう。

 

中学生から高校生、大学生、社会人へと己の所属が改まるにつれて、ストレスというのは確実に増加の一途をたどっている。

そうしたストレスと上手く付き合っていくためには、我慢強くなることが何より大切な訳で。

 

 

大人になるにつれてストレスが増えていく理由は星の数程あるだろうけれど、根源は「所属」を得るための競争にあると個人的には思っていたり。

 

学生は「所属」を手にする努力を必ずしも必要としない。例えば中学生だったら、どんなに怠惰な日々に甘んじていたとして、その結果として己の肩書きが変わる訳ではない。

高校あたりからは少しずつ「所属」を得る為の競争は活発になり始め、大学生ともなると「学歴」というカタチで完全に露見する。

そうして始まった「所属」を得る為の競争は、就活や出世競争といった形式で続いていって、不毛な争いは留まることをしらないのである。

 

こういった「所属」をめぐる争いは、傍から見ている限りでは不毛で、しかし当人としては「世間体」という自身の快適な居場所を作る為には必要不可欠な行為なのだろう。

 

閑話休題

そういう訳で、自分が昔と比べたら我慢強くなったことは確実なのだが、それが果たして徹頭徹尾喜ばしいことかと言われると……うーん、どうなのか。

 

「我慢強い」と言えば聞こえは良いけれど、言い換えれば、感性が鈍った、ということでもある。

以前の自分のほうが性格的に尖っていて、人間として魅力的だった気がしないでもない。

 

 

とか言って昔の自分を憧憬したところで、時間が巻き戻る訳ではないから、この話題はこんなところで思考停止しよう。

……だいいち、過去は美化されるものだし。