君は何故その一人称を選ぶのか

私、俺、あたし、僕、自分、ウチ、おいら、小生、拙者、朕……
これら全てが英語では「I」と訳されるのだから、日本語って、ほんと一人称が多い。

(まあ、さすがに後半はネタだけど)

 

同じ意味を持つ単語がこれだけあれば、言葉界における知られざる戦争と淘汰の末に死語が積み上げられてゆき、最終的に1,2個の単語に収束されそうなものだけれど、そうなっていないのが日本語の面白いところ。

 

特にネット上、というか文章上では一人称のバリエーションが豊富だと感じる。

リアルではせいぜい、「俺」「私」「僕」くらいしか使われないけど、ネット上では「小生」「おいら」みたいな一人称もちょくちょく見るしね。(流石にマイノリティである感は否めないけれど)

 

 そして人々はこれらの多種多様な一人称から、自分に合った一人称を選ぶのだけれど、はたしてその選択は、どのような理由で行われているのだろう?

 

ということで、個人的に理由をいくつか考えたのでつらづらと書いてみる。

 

 

 

 

1 キャラづけ

やっぱりこれが一番多いんじゃないかな。キャラづけのための一人称の選択。

 

賢そうな人が賢そうな内容の文章を書くときには一人称は「私」になるだろうし、ヤンキー、あるいはワル(こいつらをナウい単語を使って表現するのが思いのほか難しい)が自分たちのテリトリーに向けて文章を書くときには一人称はたぶん「俺」になると思う。男性的な魅力よりも中性的な魅力に憧れている男性は、「俺」よりも「僕」を使っている印象があるなあ(そして大体髪型はツーブロックで、黒縁のメガネをかけていて、ギンガムチェックにリュックサックというイメージ)。

女性だってそうだ。腐女子が「俺」を使うのが多いのは、恐らく男性に自己を投影しているから。男性のなかに美少女になりたい願望を持つ人がいるのと同じで、腐女子の方々にも心のどこかにTS願望、BLの当事者に憧れる願望があるのだと思う(腐女子の方が万に一つこの記事を見ていたとしたらごめんなさい。憶測です)。そしてその願望と現在地との距離を僅かにでも埋めるために、一人称を「俺」にするのだろう。

 

 まあそんなこんなで、一人称はキャラづけに大きく関わってくる要素だと思う次第。顔が見えないネット上なら、尚更にね。

 

2 キャラクターへの自己投影

ボクがネット上では「ボク」を使うことが多いというのは上で説明した通りだけど、その理由はそういえば説明してなかった。

 

アレですよ、ボク、ボクっ娘」が大好きなんです。

 

……シーン

 

……でもね、たしかに単純な、単純すぎる理由だけれども、好きなものに自己を投影してしまうのって、人間として当然でしょ?

 

 有名どころだと、例えば「けいおん!」がブレイクした時にギターとかベースを始めた人が沢山いるとか、あとはちょっと古い例になっちゃうけど海猿の映画が流行った後に海上保安官の倍率が爆上げになったとか。

 

少しでも「好きなもの」に近づきたいというのは人間として当然の欲求なのだよ。

 

そこ! キモイとか言わない!

 

 

でもいいと思うけどね、「ボク」。

「私」ほど堅苦しくないし、「俺」ほど自己主張強くなさそうだし。

「僕」はしもべとも読めるから印象良くないし、「ぼく」は内省的すぎるイメージ。

その点「ボク」といったら、仄かに知性と凛々しさを感じさせるし、さぞかし頭脳明晰勇猛果敢、文武両道一生懸命、フランクな人柄で、尚且つユーモア溢れる人間が使っている一人称なんだろうなあ……

 

 

 

3 コミュニティとの一体感を求めて

分かり易い例を出すと「ワイ」。

某匿名掲示板の某板で使われているネットスラング、「猛虎弁」の一人称。

 

彼らは恐らくはいつもああいう話し方をしているのではなくて、なんJ(あ、名前出しちゃった)に書き込むときに限ってああいう話し方になっていると思われる。

特定の掲示板のなかでしか理解できない表現を積極的に使用していくことによって、自分たちが同じ集団に属していて、価値観を少なからず共有していることを実感することが出来るのだ。

ワイという一人称を通じて、なんJという巨大コミュニティと一体感を感じることが出来るのだから、これもまた、一人称を決定する要因の一つになり得ると言えよう。

 

 

 

 

こんなところか(雇い主はいつものGA)

 

ちなみに、本筋とはぜんっっっぜん関係ない話だけど、一番好きなボクっ娘モバマスの二宮飛鳥くんです