自信に満ち溢れた人が苦手だ

読む本の種類によって、その時の自分自身の精神状態が何となく分かるような気がする。
    
高校時代の時のボクは、今よりも恋愛小説や学園モノの小説を好んで読んでいた。
それは当然、「感情移入しやすい」という単純極まりない理由に起因していたのかもしれないけれど、とにかく当時の自分は、現実そのものを主題にした小説を楽しんで消費していたことは確かだ。

高校時代のボクは当然今よりも若く、英気に溢れていた。自信に満ち満ちていた。自慢ではないが、当時通っていた高校では常にテストでトップを取っていたし、部活もそこそこ頑張っていて、全国大会に出場出来るくらいには活躍していた。顔は現在と同じで格別に見栄えが良い訳ではなかったけれど、クラスの女子から時折交際を申し込まれるくらいにはモテていた、と思う。まあ当時から友人は少なかったし、結局誰かと付き合うようなこともなかったので、所謂リア充という訳ではなかったのだけれど。それでも客観的にみてボクは学校内でもキャラクターが立っていた人間の一人だったと思うし、ゆえに自己のアイデンティティや承認欲求について悩むようなことは欠片もなかった。将来について悩むこともなかった。なぜならボクは学校内では相対的に優秀な成績を収めていたし、いわゆる難関大学へ進めば、普通よりも良い生活が送れるという浅はかな思考に捉われ続けていたからだ。目の前のレールをただただ歩んでいけば、明るい未来に到達すると信じて疑わなかった自分がそこにはいた。そして当時のボクは現実をモチーフにした小説を好んで読んでいた。

翻って、現在のボクは現実から遠く離れた物語を消費している。それはファンタジーであったりSFであったり、戦記モノだったりする。共通項は、現実には決して有り得ない物語という所だ。
今のボクは学生時代のボクと比べると、自己への期待というモノが著しく減少しているように思われる。はっきり言ってしまえば、自信を喪失している。投げやりな気持ちで人生を送っている。高校時代の第一志望の大学に入学し、特別優秀とは言えない成績ながらも4年でしっかり卒業し、就職も特に問題なく決めた今の自分は、高校時代のあの当時、目の前に見えたレールの先に確かに到達しているはずなのだが、レールの先にあったのは輝かしい未来でも何でもなかった。そこにあるのはただただ無味乾燥で無感動な世界であり、灰色だけで構成された生活だった。学生時代よりもたしかに年を重ねた自分がここには存在していて、その流れは加速することはあっても、逆転することは決してない。生物としてのボクは今この瞬間にも緩やかに衰退しているのだ。成績の良い自分、スポーツの出来る自分……そういった個性は過去に存在したものでしかなく、今ここにいるのは、ただのくたびれたオッサンになりかけているしがない若者でしかない。あと数年もしてしまえば只のくたびれたオッサンだ。現実は依然として煌びやかだが、今のボクにはその現実に調和できる程の輝きを持ち合わせてはいないのである。辛うじて、煌びやかな現実に擬態できる程の能力は持ち合わせている訳だけれど、そこにいるのは本来の自分ではない。そうして現実に迎合するのに疲れた自分は、やがて自分自身と、それから、現実そのものに対して少しずつマイナスの感情を抱くようになったのだ。
そんな自分が現実についての物語を楽しめる訳もなく、消費するのは現状から遠く離れた御伽話の数々だ。それらの物語には現実感がない。現実に合わせる必要がないのだ。非現実ばんざい。
――と、書いていて思ったのだが、原理としてはオタクが二次元に嵌るのと何ら変わりないのだと思う。


結論。要するに、現実を生きることに優れた性質の持ち主は現実を悠々と生きればいいのであり、現実に適合出来ない人間は、現実から逃避しつつ現実を生きればいいのだ。
問題なのは、前者は現実の世界だけで生きることが出来るのだが、後者は現実以外の世界だけでは生きることが出来ないということだ。
水面下で暮らすクジラがときには水面上に顔を出す必要があるのと同じく。

息継ぎをしながら生きていこう。そう思った。