ただ生活するだけで、悲しみはそこここに積もる

秒速5センチメートルというと映画版しか知らない人も多いと思うけれど、実は新海監督自らがノベライズした小説版の作品もあって、こちらがなかなか面白い。というかはっきり言ってしまうと、個人的には映画版よりもこちらの作品のほうが好みだ。

というのは、自分が映画よりも小説という媒体を消費することに慣れているというのが大きな理由かもしれないけれど、けれども小説版は映画版と比べて、登場人物たちの心境についての情報量が圧倒的に多い。小説という媒体は視覚的には映画に負けるので、「映像の綺麗さがこの作品の最大のストロングポイント」と感じる方は映画版のほうが楽しめること請け合いだが、映像の綺麗さというより登場人物たちの心理的な揺れ動きを主軸にして映画を楽しんだ方は、たぶん小説版のほうがこの作品の魅力をまっすぐに感じられるのかな、と思う。

新海監督の文章はシンプルで、それでいて心に刺さる文体なので、個人的にはかなり好みの文体だ。好きな文体の作家というのはなかなか見つけがたいもので、例えばボクは秋山瑞人とか桜庭一樹とか、その辺の文体が好きなのだが、それと並ぶくらいに新海さんの文章が好きなので、アニメ映画なんて良いから延々と小説を書いてほしい、というのが個人的な考えだ。今のところ、小説として出版されているのは秒速5センチメートル言の葉の庭の2冊だけなので、何とも寂しい限りではある。もう少し年を取ったらその才能を文章を書く方に使ってほしい。

小説を読む楽しみは大別すれば2種類あるとボクは思っていて、それはストーリーと楽しむか文章を楽しむかの2択である。けれども割合的には、後者の楽しみに出会える確率はかなり低い、というのが個人的な体感だ。
自分が「これは面白いぞ」と思う作品は大抵ストーリーが魅力的な作品であって、エッセンスとして文章表現を楽しめる作品は結構あるかもしれないが、文体それ自体をメインディッシュに添えられる作品は殆どないと思うのだ。ぶっちゃけ桜庭一樹なんかはストーリー自体は意味が分からなくてぜんっぜん面白くない作品が多いのだが、ボクは彼女の文体に恋しちゃってるので、どんなにストーリーがイミフでも文章を追っかけていればそれで満足なのである。


秒速5センチメートルのほうに話を戻す。
ボクが初めてこの作品に出合ったのはたしか高校2年か3年か、そのあたりで、必然的に一番好きな章は第2話「コスモナウト」だった。この章は主人公の遠野貴樹が高校生の時期を描いた話で、全3話の中では最も直線的に「恋」を描いた作品という印象だ。当時高校生だった自分は、最も感情移入しやすいという理由でこの章が好きだったのだが、社会人になった今、自分が最も好きな章は、第3話「秒速5センチメートル」である。映画組からすれば「3話なんて半分山崎まさよしのPVじゃん?」という印象かもしれないが、実はどっこい、小説版ではこの第3話は結構なボリュームになっていて、水野(映画でちょっとだけ出てくる真希波っぽい彼女)との関係についても、出会いの場面から別れの場面に至るまで、なかなか詳細に描かれている。あと、遠野貴樹の悩みが自分の現状とリンクしていて共感してしまう。


まあとにかく、読んだことが無い人にはオススメです。知名度は全然ないけど。