思考ログとしてのブログ

昔からどちらかといえば思弁的な人間で、授業中とか移動中の時間でとりとめもない事を考えながらとりあえず20数年生きてきたわけだが、どういう訳か、これまで考えてきた思考のなかで自分自身が覚えていることは予想以上に少ない。というか、ないに等しい。

これまさに吃驚仰天、驚天動地である。(総画数の多い熟語を使用すると自分自身がすっげー頭良くなったような気がして楽しい)

ようするにこれは、今まで自分が思考(妄想ともいう)に費やしてきた時間が無駄に使われてしまっているという事であり、あまりにも短い人の一生を鑑みるに、あるいはエコという謎の概念が跳梁跋扈しているこの現代社会を省みるに、この事態はそれなりに由々しき問題であるといえよう。

ましてや自分は周囲の人間と比べた際に、いわゆる「他者」とコミュニケーションを図る機会が少なかった人間であると自覚していて、けれども時というのはリア充にもぼっちにも平等に流れるものであるから、必然的に自己とコミュニケーションをとる、すなわち「思考」する機会が多かったのだと推測できるのだ。……フフ、我ながら名探偵である。

 

 

 

 

他者とのコミュニケーションというのは思い出というかたちで記憶に残りやすい。

 

仮に他者とのコミュニケーションを積極的に取る人物をA君とする。このA君がたとえ忘れっぽい性格だったとしても、友人に一人記憶力に優れる人物がいて「あの時俺らチョー青春してたよなー、ほら、文化祭の前日のこと覚えてる?昼下がりにお前とC子が屋上でさ……」みたいな事を語り出せばそれがスイッチになって記憶が蘇るだろうし、そうした思いでの忘却と想起が繰り返されることによって小胞シナプスがビンビン刺激され、最終的に記憶力の向上に繋がり成績も向上、大学受験をかるーく突破して優良企業に就職、C子ともなんやかんやで倦怠期を乗り越え結婚し3人の子供を授かり、安定した生活を送ることも可能となるかもしれない。

 

一方のB君、友人はいない。文化祭の前日、クラス中が行事前特有の落ち着かない空気に包まれている中、B君はA君とC子の席が空席になっていることに気が付いた。ちなみに昼休み明けの5時間目のことである。

(AとC子の姿が見えない。……あいつらまさか、屋上で青春っぽい事してたりしねえよな?)

そのまさかである。

(ああ、でもどうでもいいか。俺ぼっちだし。AもC子もリア充だしさ、お似合いだと思うよ? ぶっちゃけ。……え、なに酸っぱい葡萄て。それアレじゃん、俺がC子に恋してるみたいじゃん。いや、違うから。それはマジで違う。マジマジ。……もういいわ、今日もいつもみたいに妄想しよ。今日はテロリストがヘリで屋上から降りてくる設定で、俺は少し先の未来を先読み出来る能力を持ってて、それでC子が……)

 

こうしてB君は見事テロリスト達を殲滅し、唯一生き残ったC子となんやかんやの末に結婚し、エロいことも沢山して幸せな人生を送る事になるのだが、あくまでそれはB君の妄想である。

実際のC子はA君と屋上で青春を謳歌していて、B君はそれに気付くことなく卒業、妄想のせいで学校の授業をまともに聞いていなかったB君は2浪の末、都内の中の上レベルの大学に進学するも、生まれ以てのコミュ障が足を引っ張って就活に失敗、公務員浪人を続けながらコンビニバイトを続ける人生を送る事となるのだ。

 

つまりは、B君の人生に足りなかったのは人と積極的に関わる経験だったという訳。

これはボクらにとっても他人事ではなくて、積極的に他者と関わり、自分自身を成長させていこうという向上心が、これからの日本経済の復興に必要な要素なのではないだろうか。

 

 

 

 

あれ、なんの話してたんだっけ